勝つことには意味があったか

 私は一昨年の12月7日に、部活の全国大会で優勝した。小さな大会でも一度も優勝したことがないのに、最後の最後の全国大会決勝でベストなパフォーマンスをして勝ち切った。これ以上表現のしようがないぐらいのハッピーエンドだ。求めていた感動が手に入った。

 だが、1つ、胸のあたりにつっかえたままの問いが未解答のまま残っていた。本来ならそれは、一昨年のうちに決着をつけておくべきはずのものだった。それができなかったから、昨年幾度も思い返してすっきりしない気分になることがあった。それは、

「勝つことに意味はあるのか?」

 という,私が大学生活をかけて追究してきた命題だ。

 すべては敗北から始まった。高校時代うちたてた「競泳で全国優勝して東大にも現役合格し、実績で唯一無二の存在になる」という目標があえなく潰えたのだ。震災の直後、高校を出て東京へ来た当初の私は、挫折感に打ちひしがれながら、それを悟られないように無数の言い訳で武装して暮らしていた。容易には周囲に悟られないように、しかし、少し親しくなった人には友情の証とでも言わんばかりにその身の上話を醜く垂れ流していた。

 他の誰にもできない目標を達成する、それこそが全てだとする自分の世界観が崩れた私は、新しい軸を求めて、無様にあちこちをさまよった。外面的には様々な部活やサークルに顔を出しては理由をつけて去った。正直、このころ働いた不義理の数々は思い出したくもないが、きちんと向き合わなければいけないことなのだろう。

 やがて確立されたのが、「絶対に勝てない環境で、勝てないことに意義を見出す」という、わけのわからない指針だった。その営みの中で、高校までの自分のすべての行動を相対化し、外から見える実績ではなく内面からあふれてくる自己の充足を探そうと思った。

 はたして、その過程は苦痛に満ち満ちていた。箸にも棒にもかからないような成績と、先輩から投げかけられる諦観、同期からの憐みの目線はこれまで味わったことがないものだった。こんなことに意味があるのか。もう辞めたい、と幾百度も考えた。

 自分の思想を語るのもはばかられるほど無残な実力しか持たなかった私は、ぶれにぶれた。

 しかし、最後の最後に、ドラマチックに優勝してしまった。報われてしまった。信じがたいような熱気に包まれ、でかい会場のみんなから祝福を受けて、私はおんおん泣くほど気持ちよかった。

 すると、それまでの苦しみや後悔は一気に、拭いがたい汚点から、勝利のための伏線として見事に転換を果たした。

 勝ちと負けについての、どろどろとした考察は吹っ飛んでしまった。勝つことが尊いに決まっている、これこそが求めていたことだ。そういう気分に浸され、今こうやって必死に昔の文章を読んで思い出さないことには、限界ぎりぎりまで心が苦しかったことすら忘れてしまっていたぐらいだ。

 勝利すること、すなわち結果を出すことの魔力は、かくも圧倒的なようである。

 今また私は、成果とそれについてくる感動のジャンキーとなって、次を追い求めている。

 なぜ勝ちたいのか?それは、気持ちがいいからだ。
 それ以上の答えを結局私は、4年かかっても見つけ出せなかった。

くまりん/大熊将八(@Shoeyeahok)